ここ2年ほど今までやったことがなかった髪型を試してみた。
前髪ありショート
↓
前髪なしショート
↓
前髪あり刈り上げボブ
↓
前髪なしミディアム
結果、前髪ありでロングの方が似合ってるかなと思う。前髪なしは頭の形的に髪を下ろしていると顔にかかってきて邪魔なので、僅差で前髪ありぱっつんにする方が楽。たぶんまた1年くらい経ったら前髪なしの方が楽やったと思いそうなので、その時の自分にこの記事を振り返ってほしい。前髪ありのぱっつんが1番楽。
以上
ここ2年ほど今までやったことがなかった髪型を試してみた。
前髪ありショート
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前髪なしショート
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前髪あり刈り上げボブ
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前髪なしミディアム
結果、前髪ありでロングの方が似合ってるかなと思う。前髪なしは頭の形的に髪を下ろしていると顔にかかってきて邪魔なので、僅差で前髪ありぱっつんにする方が楽。たぶんまた1年くらい経ったら前髪なしの方が楽やったと思いそうなので、その時の自分にこの記事を振り返ってほしい。前髪ありのぱっつんが1番楽。
以上
他の映画を見に行った時の予告編が面白そうだったので。
監督&脚本フランソワ・オゾン。2023年12月5日鑑賞。
サスペンスコメディの雰囲気で予告編が出ていたため観るまで全く気づかなかったが、この映画は女性の人権のあり方を批判し、女性はこうでなくていいんだと優しく教えてくれて、かつもっと声あげてこうよと呼びかける映画だった。
自分は50~60年代の雰囲気が大好きなので正直なところ、何でわざわざ30年代にしたん?????の気持ちでいっぱいだった。いっぱいなりに考えてみたところ、以下2つが理由だろうという結論に。
①世界的に女性が参政権を獲得し始めた時期だから
②無声映画からトーキーへと変わった年代だから
①の女性の参政権については、ネットで調べたところ1893年のニュージーランドが世界発とのこと。その後も世界各国で女性参政権運動がさかんになるが、いわゆる主要国であるイギリスやドイツ、アメリカで女性が参政権を得るのは第一次世界大戦直後。作中の舞台であるフランスに関しては日本と同じ1945年だったらしい。作中のフランスでは女性にはまだ参政権がなく、過渡期の時期だということ。
②の無声映画からトーキーに変わるというのは、今まで声なき者とされていた女性が少しずつ権利を勝ち取り主張できるようになってきたのを表しているんだろう。裁判のシーンでも女性弁護士のポーリーヌや被告のマドレーヌが弁論するシーンは女性の権利を訴えるような内容ばかりだった。特に最終弁論をするポーリーヌの台詞は現代との年代のギャップが効いてて印象的。「1934年にもなってまだ女性はこんなに不当な扱いを受けている」と訴える内容の台詞は、作中から90年も先の未来に生きているのにまだ女性の扱いは30年代とほぼ変わらないままなのかと現代を批判している。
そう思うと、舞台に1930年代を選んだことってすごく意味がある。さすが映画。そして監督兼脚本のフランソワ・オゾンすごい。しかもこのフランソワ・オゾン男性だったとは驚き。こういう女性がテーマの映画を作るのは女性監督ではないか、という自分の偏見にも気づけて良かった。
1930年には意味があったと分かったけど、この映画を2023年に上映した意味は何か?この映画の作成にどれくらいの時間がかかったかは分からないけど、#MeToo運動が影響してそう。#MeToo運動がツイッターで話題になったのが2017年。
女性が好きそうな雰囲気の映画で女性の観客を集めて女性の人権を語るというのは、みんなもっと声あげてこうよ、MeTooの時のように声をあげて主張してもっと世界を変えていこうよというアピールなのかも。
途中から出てくるオデット・ショーメット、てっきりヴィランかと思いまた女同士争わせるのかと思ったら最後はwin-winな形になるようお互い協力してハッピーエンド。この終わり方も女同士協力して生きていこうねって感じする。
この作品で年代以外にもう1つ疑問に思ったことがある。それは女性の露出。2か所も肌の出るシーンが出てきて衝撃だった。女性についてかなり分かってる映画だから、無意味な露出はしないだろうのにその意味をくみ取れてない自分が悲しい。
1つ目の露出シーンはマドレーヌが資産家男性のパルマレードにお願いに行く場面。ここでマドレーヌはパルマレードを誘惑してお願いを聞いてもらうために右胸をさらけ出す。それをみたパルマレードはそのまま好きにすることはなく、体を差し出さなくてもマドレーヌの要求を受けてくれる。このシーン、この「女が男に頼み事をするときに体を差し出す必要はまったくない」というメッセージは観客の女性に絶対に忘れてほしくなかったんだと思う。だから強いインパクトを残すための露出だったのかなと思っているがなんかそれだけではなさそうでモヤモヤしている。会ってた場所も意味ありげだし。と思ったけどエンドクレジットへの布石?
2つ目はマドレーヌとポーリーヌ2人で入浴しているシーン。貧困から脱して、もう水道代を節約したり身を寄せ合って暖をとる必要はないのに2人で一緒にお風呂に入っている意味ありげな場面。2人の感情の違いがわかるシーンかな。ポーリーヌはマドレーヌを恋愛として好きだけど、マドレーヌはなんとも思っていないから体を隠すこともなくザバッとバスタブから上がる。でもここでその違いを出してきたのはなんで?今は分からなくともそのうち分かるかもしれないので寝かせておく。
こんな感想を書いていると真面目な映画みたいだが、最初からずっとコミカルで明るい雰囲気、画も美しいし、謎解き気分で楽しいし、コメディ部分は面白い。ハッピーエンドだし。
特に好きなのは、オデットが裁判所で判事に真犯人だと告白した後。判事も自分の判断が間違っていたと分かるとまずいので、マドレーヌが犯人で無実になったという結果は覆せないとオデットに説明。未解決事件をいろいろ出して、オデットに犯人になりたい事件を選べと説得しているシーンは大好き。あと殺人後にスターとなって富と名声を得たマドレーヌをみて、世の中の女性たちの選択肢の中に殺人が入りだすところも笑える。
回想のようで現実にはない部分のシーンは白黒だったのに、最後はカラーになってたのもおもしろかった。実際の出来事とは違うけど、カラーになっているということはこれが現実ということかと思わせるようなね。
あとエンドクレジットも面白かった。登場人物のその後が新聞記事としてそれぞれ登場するけど、みんなボロが出てるというかあんたもやっとったんかいっていうニュースになってて。いい終わり方。
邦題のつけ方もめっちゃ上手いよね。原題の「mon crime」ってそのまま訳すと「私の犯罪」となってなんか真面目そうだし硬そう。「私がやりました」はタイトルからコメディ感が出ててすごい。
予告を見てたから、オデット・ショーメットがいつ登場するのかと前半はちょっとだけ退屈だったけど、後半はテンポよく見れた。終わりよければすべて良し。
以上。
「自分のアタマで考えよう」作者・ちきりん
を読みました。自分の意見がいえる人間になりたい。2023年12月2日読了。
目次
まず驚いたこと、自分の持つ「考えられる人」の定義が間違っていた。
定義が違うんやったらそりゃ考えられるようにはならん。
今までの自分が思う考えられる人は
「新しい情報に対して自分の持っている知識とくっつける」ことがスムーズな人
だったんですね。今思うと。
知識量が足りないから新たな情報とくっつかない→考えられないのだと思っていた。だからたくさん本を読んで知識を入れようとしていた。
なんということでしょう。違いました。
この本の中で言われている考えられる人とは
”新しい情報に触れた時、過去の知識ではなく、目の前の情報から考えることができる”人
そしてさらにこうも書いてあります。
自分の頭で考えること、それは「 知識と思考をはっきりと区別する」ことからはじまります
ちきりん. 自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術 (Kindle Locations 302-303). ダイヤモンド社. Kindle Edition.
私はこの区別ができていなかった。
区別で思ったが、日本人ってけっこう曖昧を良しとするところない?なんでも区別つけるの苦手な人多くない?私だけ?
自分の中の定義に不安が生じたため、以下も頭によく刷り込もうと思います。
「考えること」「 思考」とは、インプットである情報をアウトプットである結論に 変換するプロセスを指します
ちきりん. 自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術 (Kindle Locations 411-412). ダイヤモンド社. Kindle Edition.
「その時点での結論を出した」というのが、「考えた」ということです
ちきりん. 自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術 (Kindle Locations 414-415). ダイヤモンド社. Kindle Edition.
「じゃあ、結論(=あなたの意見)はなに?」と聞かれたときに、なにも浮かんでこ ないのであれば、それはじつは考えていないのです
ちきりん. 自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術 (Kindle Locations 416-417). ダイヤモンド社. Kindle Edition.
1番知りたいところです。
考える力をつけるもっとも有効な方法は(中略)時間の使い方を把握し、自分が考えることに使っている時間を「見える化」して、それを少しでも長くすること
ちきりん. 自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術 (Kindle Locations 457-458). ダイヤモンド社. Kindle Edition.
スポーツや語学と同じでした。やるしかない。
この本に書いてある思考の方法をもとに、少しでも長く考える時間をとるしかない。
この本の中では例えとして料理の買い物や手順が少し出てきたんですが、確かに料理を作るのと自分の意見を作るのと流れが似てるんですよね。この本に出てきた思考方法なんかも一緒に自分なりに以下にまとめてみました。
ステップ①意思決定のプロセスを考える=レシピを考える
文章に落とせるくらい超具体的に。
「どんな情報(食材)があの意思決定(料理)に必要で、どんな情報は不要なのか」
「どの情報がどうであればどうする」という基準を明確にする。
判断基準は「目標の姿」から導かれる=どんなものが食べたいかで基準が決まる。
判断基準には優先順位をつけて、1つか2つに絞り込む。
判断基準が多いと決められないため。判断基準を絞ることで本質が浮かび上がる。
ステップ②情報収集する=食材をそろえる
インプットの段階。
ステップ①で明らかにした基準をもとに情報収集する
「情報の価値」とは「その情報によってわかること(得られるもの)の価値」
ステップ③情報をグラフ化する=下処理
グラフ化(下処理)する意義があるか考えて、必要であればする。
思考(料理)の生産性に大きな影響を与える作業。
階段グラフとプロセスを組み合わせるも有効。
ステップ④思考を言語化する=調理
アウトプットの段階。その時点での結論を出す。
思考方法
・知識と思考をはっきり区別する。知識が思考を邪魔していないか?
・プラスの面、マイナスの面、両方考えてみる
・思考のレベルをそろえる
・情報を見た時にまず以下2つを問う。特に数字の情報を見た時は必ず。
「なぜ?」:数字の背景を探る問い
「だからなんなの?」:データの先を考える問い。過去の結果がこの数字に表れているのなら、次はなにが起こるのか?それに対して自分はどうすべきなのか?
・比較する。すべての分析の始まりは比較
「なにとなにを比較するのか?」=対象の比較
「どのような点について比較するのか?」=比較の項目
☆比較の基本は縦と横
縦=時系列比較=歴史的な観点でものごとを見ること、
過去と現在、過去と現在と未来、過去と未来のあるべき姿
横=他者比較=国際的な視点で物事を見ること、
自他の比較(自分と他者、自社と他社、自国と他国)
☆プロセスの比較
ステップ⑤思考を視覚化する=盛り付け
この思考を図にするとどうなるかなと思いながら書いてみる。言語で考えていた時には抜け落ちていた部分について明確にする必要が出てくる。より思考を深められる。
あらゆる可能性を考えるための要素分解をし、分解図を使う。
「これらがそろえば○○だと言える!」と確信できるまでやる。
このネーミングはとても分かりやすいですよね。この言葉を選ぶとは、なんて言語化がうまいんだと感動しました。これが考える力かと。
この思考の棚について学べたことで頭の中の整理がしやすくなりました。
・自分の1日の時間の使い方を記録し、少しでも長く思考の時間を作る
・情報収集や分析にかかったのと同じ時間だけ思考する
・目に留まった情報のうち、気にかかった情報に関してだけでも
「なぜ?」「だからなんなの?」と考えるクセをつける
・新たな情報が手に入ったときに、その情報に適した「思考の棚」を考えてみる
そしてその棚が埋まったらいえる結論まで考えてみる
・古典や歴史的な名著を読む前にその内容について考えてみる
・調べればわかることも考える
世の中には「過去のデータはあるけれど、 誰も将来を予測していない」分野もあり ます。そういったときに「自分の頭で考えて予測できる力」があれば、将来に向けて 準備や投資ができるようになります
ちきりん. 自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術 (Kindle Locations 671-673). ダイヤモンド社. Kindle Edition.
またビジネスに関することであれば、誰かが予想し、それが新聞に載ってから動きはじめていては出遅れてしまいます。自分で考えることができれば、他者に先んじて準備を整えられます
ちきりん. 自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術 (Kindle Locations 673-674). ダイヤモンド社. Kindle Edition.
思考以外の部分でへーっ!と思ったのが、アメリカと日本の評価方法の違いについて書いてあったところです。
「失敗経験がある人は、その失敗から正しいやり方を学んでいるはず」という理屈で 評価するシリコンバレーなどと日本は大きく異なります。日本では失敗は結果です が、彼の地では失敗は「正しい方法論の学びの機会」です。
ちきりん. 自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術 (Kindle Locations 862-864). ダイヤモンド社. Kindle Edition.
自分の意見を言うのが苦手で失敗もしてきましたが、正しい思考法の学びの機会としてこの本に出合えてよかったと思います。
以上。
今までゲゲゲの鬼太郎を読んだことも、実写化やアニメを観たこともない。タイトルを聞いたことがあるだけ。なんか今回の映画、人気らしいので観てきた。
脚本・吉野弘幸、監督・古賀豪。2023年12月1日鑑賞。
この映画を一言で表すなら、パンドラの箱。
なるほどなと思ったのが、作中で初めて妖怪をはっきりと目にした水木に対しゲゲ郎が言う「妖怪はいつでもそこにいる。見ようとしてないから見えないんだ。人間は見たいものしか見ていない」という台詞(うろ覚え)。この台詞こそがゲゲゲの鬼太郎シリーズの主題なんだろう。
この映画のなかでも目に見えないものがたくさん描かれている。
・戦時中も戦後も変わらぬ人間の強欲さ、自分勝手さ、暴力、権力
・昔からの閉鎖的な悪しき慣習
・女性差別、人種差別
・それらが変わらぬ絶望、苦しみ、恨み
など、目に見えない良からぬものがたくさん出てくる。見落としているものもあるかもしれない。そして妖怪はそれらふくめて目に見えない良くないものの暗喩であるということがわかるゲゲ郎の台詞だろう。
それら目に見えないものがサスペンスベースの物語からいっぱい飛び出してきて、そして物語が終わった一番最後、エンドクレジットのそのあとに残っていたのが鬼太郎。分かりやすく「鬼太郎=希望」として登場する。
そういえば、この映画は目にみえない素晴らしいものも描こうとしていたと思いだす。ゲゲ郎とその妻との愛、ゲゲ郎と水木とのブロマンスもそうだろう。
終盤では結局ゲゲ郎と水木のブロマンスを1番重視していたのか?という気持ちにもなったが。
最近の日本は暗い。そんな中でも希望をもって力を合わせて生きようというエンパワメントのための映画なのかもしれない。しかし見終わった後はそんな希望にあふれた気持ちにはならなかった。PG12で年齢制限有りとは言えど、勧善懲悪なストーリー、人が死ぬ描写は多々あるが直接的なグロは避けて音や影で表現されているあたりは子供が見ることを意識しているようだった。
また、この映画はパンドラの箱のようだと思ったが、ご先祖様のおかげで助かるという流れはかなり日本的に感じた。
ほかに今回気づかされたのは、アニメだとメッセージ性の高いテーマをもってくるのに向いているという点。子供から大人まで、敷居が低いのが素晴らしい。成人してからはアニメをほとんど見ていなかったため反省。
作中のサスペンス要素はけっこう王道なものの詰め合わせだったように思う。展開もセリフも。そのせいかオチが弱かったように感じたが、この映画で1番大切なのは「妖怪」=「目に見えないもの」の描写であり、ストーリーはその次だったのかもしれない。
いわくつきの閉鎖的な場所から出られない中次々と人が死んでいくのは今ではかなり王道だろうし、無害そうな少女が実は殺人犯というのもどこかで見たことがある感じ。そこに生き別れの妻を探す話や裏取引されている秘薬の謎を追う話が絡んでくるので複雑さはあるが、尺が足りてない感じがして少し物足りなかった。
特に秘薬Mの製造方法なんかは詳細が曖昧というか、幽霊族の血を抜くと言っていたが、地下にたくさん囚われている幽霊族にはチューブも何も繋がっておらずどういう仕組みになっているのかが気になる。ベッドに囚われているのとは別の場所に血桜があり、その関係もよくわからず。村の人間に幽霊族の血を打ってベッドに縛り、幽霊族に変わったら血桜の根元に移動させてた?そもそもどの段階で血を抜いていたのか?手足を切ると言っていたが皆手足がついていたのはなぜ?など少しモヤモヤする。
見えないものへの対比なのか、見えるものとしての映像はかなり綺麗につくってあった。全体を通して絵や構図が綺麗なのはもちろん、アクションシーンは迫力があるし、エンタメとしてもとても良い。
この映画で見えないものの描き方として1番印象に残ったのは龍賀家の長女・乙米。
血の繋がる当主の子を産むため乙米の娘・沙代と当主の爺さんの間に望まない身体の関係があったというのは胸をえぐられる思いでつらかったが、これが一族の定めということはきっと乙米も同じように過去の当主と身体の関係にあったということだろう。沙代に注目が集まる中、悪役として描かれている乙米もまた同じかそれ以上のつらさを抱えてきたのに不可視化されている。沙代は最後に妖怪・狂骨を操り全てを破壊して自分も死ぬことで、つらいながらも少し救われたように感じたが、乙米には救いはあったのだろうかと思うとまた胸が痛む。被害者でもあり、加害者でもある展開のやるせなさ。どちらが悪いと白黒つけられないのが一番つらい。乙米は自分の妹(三女)の夫・長田と不倫してそうな描写もあった。また三女も見えないつらさを抱えている。ここらへんが1番印象的だった。
全体的に暗い話なので、もういちど見たい気持ちにはならないが、ゲゲゲの鬼太郎に関して興味をもつことができた映画だった。さっそくTVアニメを見てみたくなっている。100周年のアニバーサリーイヤーの映画としてかなりいいのでは。
ネットでみたところ、「墓場鬼太郎」の第1話と6期第1話をみてからこの映画を観るとより満足できるらしい。あと横溝正史や京極夏彦のファンはより楽しめそうとのこと。まあそれら全く知らなくとも十分楽しめたので、私のように思い付きで見に行ってもいいかも。
以上。
漫画「君と宇宙を歩くために」作者・泥ノ田犬彦
の感想です。
コミックDAYSのリンク↓
https://comic-days.com/episode/4856001361225662498
ネタバレあるかも注意。
現時点ではまだ2話までしか更新されてないが、めっちゃいい。1話読み切りでも満足感すごい。
作品名もめっちゃいい。正直なところ作品名を見ただけではあまり読む気にならなかったが(自分が宇宙にあまり興味がない)、1話読んだらもうこれしかないなと。最適解としか思えない。
ロマンティックな雰囲気があるのもいい。自分たちが生きていく世界を宇宙に例えるって素敵やん。
最近まで「闇金ウシジマくん」を読んでいたせいか、それと比較して救われた気持ちになった。
「君と宇宙を歩くために」の小林くんは、宇野くんと出会ってなかったらいずれウシジマくんにお金を借りる未来を生きていただろうと思える。
いや、宇野くんとの出会いだけでは結局カウカウファイナンスに行ってしまう気がする。小林くんのお母さんがパチンコやってそうな描写があったし、そのうちお母さんからせびられて闇金で借りてしまうのでは。バイト先の大人が小林くんと向き合う姿勢をとっているから、小林くんはカウカウファイナンスに行かずに踏みとどまれるのでは。踏みとどまってくれ。
ウシジマくんの漫画なら、小林くんが勇気をだして「レジ間違っててすみませんでした!!」って謝っても「あー、いーよもう頼まないから」みたく軽く流され、その後仕事を振られることもなく、使い捨てのバイトやのにはよ辞めへんかなと圧をかけられ、空気のように辞めていき、自尊心ズタボロで自信も無くなって、自分以外の他人を憎んで、性格がひねくれてしまう小林くんになるだろう。
そう思うと、小林くんの素直さが眩しく、小林くんを受け止めて見守るだけの余裕があるバイト先の山田さんが尊く、小林くんに向き合い自分の意見を伝えるバイト先の茶髪の人がありがたい。バイト先のセンター分けの人も、ちょっと余裕なさそうだが結果悪い人ではないようなのでまあよかった。
余裕のある大人になりたいね。
以上。